The father of Japanese acupuncture

杉山和一と管鍼法

杉山和一について

杉山和一は、鍼術に鍼管を用いる管鍼法を確立し、広めたことで、鍼灸史上で最も偉大な鍼医として認知されています。また、彼は徳川幕府の五代将軍徳川綱吉の侍医としても知られており、海外においても、Sugiyama Waichiの名は、「日本の鍼の父」(The father of Japanese Acupuncture)として、鍼灸師たちの尊敬の念を集めています。



鍼管と管鍼法

管鍼法は、日本国外では、一般に、「鍼管を用いた刺針法」として認識されています。
しかし、杉山流では、刺針だけを目的として鍼管を用いていたのではなく、刺針の効果を高めるための付加的な刺激を与えることにも用いられていました。

そして、そのために考案された数々の技法は「管鍼術」と呼ばれています。
「杉山真伝流」には、十四種類の管鍼術が記載されており、それらの術は「十四管術」と名付けられています。
また、「鍼管を用いた刺針法」、すなわち、刺針法としての管鍼法は、狭義の管鍼法として位置付けられます。

刺針法としての管鍼法は、現在では、日本国内ばかりでなく、海外諸国においても広く普及し、多くの専門家が、鍼管を用いて刺針を行っています。



十四管術の例

竜頭管
内調管
通谷管
通谷管

杉山和一の生涯

盲目となり鍼医を志す

杉山和一は、1610年に、伊勢国(今の三重県)の津で、中級武士の長男として生まれました。彼は健康な体で生まれましたが、幼い頃に、はしかと推測される伝染病に感染したことが原因で視力を失いました。

この時代、視覚障害者の職業は、琵琶法師か「揉み療治」と呼ばれる按摩というのが一般的でした。そのため、和一の母は彼に琵琶を習わせましたが、彼は、琵琶法師ではなく鍼医を志したいと願いました。
視覚障害者が鍼医を目指すということは並大抵のことではありません。しかし、彼は、江戸に山瀬琢一という視覚障害者の鍼医がいることを知り、江戸に渡って琢一に入門しました。

挫折と破門

琢一に入門して約3年が過ぎた頃、和一は不測の事態に直面し、鍼術の修行を続けることができなくなってしまいました。当時の日本の鍼術の世界には、満足な教科書などは存在せず、鍼治は、ごく簡単な経穴図に基づき、師匠の口述による指導によってのみ行われていました。そのため、当時の鍼治には誤治も多く、誤治によって患者が死に至る場合も少なくありませんでした。

和一は、いつか自分も医療事故を起こして、患者を死なせてしまうかも知れないということを受け入れることができず、鍼術の修行を続けることができなくなりました。そして、とうとう琢一から破門にされてしまいました。

江ノ島で断食修行

しかし、和一は、どうしても鍼医になる道を捨てることができませんでした。そこで、この上は、もはや「神仏の力」におすがりするしかないと考え、江ノ島の弁才天を参詣することを決意しました。

江ノ島の弁財天は、当時、関東地方の最高峰の霊場として崇敬の的となっていました。江ノ島には波によって浸食されてできた岩屋と呼ばれる洞窟があり、「宿坊」と呼ばれる宿泊施設から岩屋まで、毎日通って願をかける「お籠り」と呼ばれる断食修行が行われていました。

杉山和一は、宿坊で寝泊りをしながら、21日間、水以外は口にせず、1日に3回、岩屋まで通って御神託を授かるための断食祈願を行いました。
この断食修行は、水以外は一切口にすることができない過酷な修行であり、当時は、修行中に命を落とす人も少なくありませんでした。杉山和一は、神の啓示を得るために、死ぬことさえもいとわぬ覚悟で、江ノ島での修行に臨んだのです。

御神託を授かる

杉山和一が命を落としてでも得たかった神の啓示とは、「鍼術による医療事故を防ぐための方法」でした。

当時、江ノ島の弁才天のお籠り祈願は、7日間をひと区切りとして行われていました。そこで、和一は、啓示を得るために、江ノ島の岩屋で、7日間にわたって断食祈願を実行しましたが、結果としては、何の啓示も得ることができませんでした。そこで、さらに7日間、断食祈願を続けましたが、やはり、何も啓示も得ることはできませんでした。

和一は、さらに7日間、断食を続けました。すると、和一の脳裏に、生死をかけて祈念し続けた弁才天が姿を現しました。そして、「針をより安全で容易に打つために管のような補助道具を使う」という天来の妙想が閃きました。管鍼法は、和一の命がけのお籠り修行によって、最後の最後に得ることができた神託だったのです。

京で管鍼法を確立

江ノ島で弁才天の啓司を得て、断食修行を終えた和一は、江戸の山瀬琢一の元に戻っています。そして、琢一は、和一に、京に行くことを勧めました。

当時の日本では、鍼術の本場と言えば京であり、鍼術が江戸よりも盛んに行われていました。そのため、京には優れた鍼医たちが集まっていたばかりでなく、鍼術の道具を作る職人も、江戸よりも大勢いて、針の製造技術も進んでいたからです。
和一が、さらに鍼術の研鑽を重ね、管鍼法をより高い水準で完成させるためには、京が最適な環境だったのです。このような経緯から、琢一は、和一に、京に行って「入江流」を学ぶことを勧めました。そして、和一は、琢一の尽力によって入江豊明から入門を許され、1635年、京へと旅立ちました。

京には、御薗流の御薗意斎が創始した「打針術」という独自の刺針法が行われており、入江流では用いられていませんでしたが、京では盛んに用いられていました。打針術は、現在ではおおよそ行われていませんが、小さな木製の槌で針柄の後部を叩いて刺針する鍼術の技法です。
「針柄の後部を叩いて切皮する」という独特の手法が、管鍼法の切皮の手法と類似していることから、和一が京で打針術を学び、管鍼法を完成させる上で、打針術が関与している可能性が高いと考えられています。

こうして、京で過ごし、和一は、試行錯誤と工夫を積み重ね、「金属製の鍼管」を発明し、「管鍼法」という独自の刺針法を完成させたのです。

鍼術の教科書を編纂

和一が編纂に関与した鍼術の教科書は、「療治之大概集」上・中・下、「選鍼三要集」、「医学節用集」の三部であり、「杉山流三部書」と呼ばれています。

これらは鍼治の基礎理論を整理したものであり、最近の調査研究によって、「選鍼三要集」は和一の自著であるが、「療治之大概集」は、和一が京で交流のあった砭寿軒圭庵による、変体仮名書きの「鍼灸大和文」を、漢字・仮名混じり文に再編集したものであり、「医学節用集」は、和一の死後に、彼の講義録を弟子の三島安一が編集したものであることが判明しています。

江戸に戻り綱吉公の侍医となる

京での生活が10年を過ぎた頃、和一は、自分自身の目標を実現するために、再び江戸に戻りました。

江戸に戻ると、和一は麹町に私塾を開き、弟子を取って開業しました。鍼術の本場であった京で修行を積んだ和一の鍼の実力により、彼のもとにはたちまち大勢の患者が集まり、その名声によって門弟も大勢集まりました。
和一は、ここで、京で学んだ知識と管鍼法の技術を弟子たちに伝授しました。この時代、鍼術は、家伝のような秘密主義が主流であったことから、私塾を開いて積極的に弟子を取り、自分の技術を公開するというのは非常に画期的なことでした。

杉山和一の鍼医としての名声は、江戸ではさらに広まり、とうとうその名は江戸城にまで及びました。1680年(延宝8年)、和一は五代将軍綱吉に拝謁し、持病の治療をして効果を得ました。そして、これを機に、和一は綱吉を継続的に治療するようになり、1685(貞享2年)には、綱吉の持病を回復させた功績により、常盤門内道三河岸の屋敷を拝領し、以後、将軍付きの侍医とし綱吉に仕えました。

本所一ツ目弁天社を創建

1693年6月18日、綱吉から、当時の「本所一ツ目」という場所に、2700坪の領地を与えられました。さらに、綱吉は、老いてもまだ江ノ島への参拝を続ける和一の体を気遣い、この本所一ツ目の地に、江ノ島弁才天を分霊して祀るよう取り計らいました。

そして、このような綱吉の取り計らいにより、杉山和一は、江ノ島弁才天の御分霊をお祀りして「本所一ツ目弁天社」を創建しました。この本所一ツ目弁天社が、現在、東京都墨田区千歳にある「江島杉山神社」です。

1694年(元禄7年)5月20日、杉山和一は、一つ目弁天社の建立を見届けたようにして、眠るようにこの世を去りました。

杉山和一をお祭りする江島杉山神社

御由緒

杉山和一は、1693(元禄6)年6月18日、当時の「本所一ツ目」という土地に、2,700坪の領地を与えられました。さらに、綱吉は、年老いてもまだ江ノ島(現在の神奈川県藤沢市江ノ島)への参詣を続ける和一の体を気遣い、江ノ島下之宮の祠管を呼び出して、下之宮にあった平家由来の黄金の弁財天尊像を差し出させ、その引き換えとして御朱印地を与えました。

そして、同日の1693(元禄6)年6月18日、和一に江ノ島の弁才天尊像を授けて、「江ノ島への参拝はもう止めるように」との心厚い言葉を賜ったと伝えられています。綱吉の和一に対する信頼と思いやりを伺い知ることのできる逸話です。

このような綱吉の取り計らいにより、杉山和一は、江ノ島弁才天の御分霊をお祀りして「本所一ツ目弁天社」を創建しました。この本所一ツ目弁天社が、現在、東京都墨田区千歳にある「江島杉山神社」です。本所一ツ目弁天社は、たちまち江戸庶民の信仰を集めるようになり、「江戸名所図絵」にも掲載されるほどの名所となって、大奥からも舟で参詣に来る人があったと伝えられています。

和一の没後、弟子たちが、本所一ツ目弁天社に、杉山和一の霊牌所として「即明庵」を建て、和一の尊霊を仏として祀りました。1871(明治4)年、当道座が廃止され、一ツ目弁天社は「江島神社」となり、1890(明治23)年、杉山和一を御祭神とする「杉山神社」が江島神社の境内に創建されました。

1923(大正12)年、関東大震災で2つの社殿が焼失し、その後、第二次世界大戦で再び焼失しました。1952(昭和27)年、社殿が再建され、江島神社が杉山神社を合祀して、社名が「江島杉山神社」(えじますぎやまじんじゃ)となりました。現在の江島杉山神社では「市杵島比売命」と「杉山和一総」が御祭神としてお祀りされています。

また、御賽銭箱と神輿庫(みこしこ)の扉に示されているのは、江島杉山神社の御神紋であり、徳川綱吉公に由来する葵が、江ノ島に由来する波紋の中に表されています。

境 内

江島杉山神社
御社殿
岩屋と杉山和一像
岩屋と杉山和一像

江島杉山神社崇敬鍼灸師会について

全国の神社については、皇祖(こうそ)天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする伊勢の神宮を別格の御存在として、このほかを氏神神社と崇敬神社の二つに大きく分けることができます。氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する方を氏子(うじこ)と称します。これに対して崇敬神社とは、こうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社をいい、こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。神社によっては、由緒や地勢的な問題などにより氏子を持たない場合もあり、このため、こうした神社では、神社の維持や教化活動のため、崇敬会などといった組織が設けられています。氏神神社と崇敬神社の違いとは、以上のようなことであり、一人の方が両者を共に信仰(崇敬)しても差し支えないわけです。(神社本庁のウェブサイトより)

江島杉山神社は、鍼管を創案し、管鍼法を広めた杉山和一が御際神としてお祀りされている唯一の神社です。そして、現在では、日本国内のみならず、世界中の多くの鍼灸師が、鍼管と管鍼法の恩恵を被っています。そのため、上記のような神社事情から、江島杉山神社は、「鍼灸師の崇敬神社」として、鍼管を用いて臨床を実践する全ての鍼灸師から崇敬されて然るべきでしょう。そして、実際にも、多くの鍼灸関係者と鍼灸師の養成施設の生徒が、杉山和一の御神徳を賜り、「鍼治上達」「鍼灸按学術成就」「国試合格」の御利益を得ることを祈願して、江島杉山神社を参詣しています。

「江島杉山神社崇敬鍼灸師会」は、江島杉山神社と御祭神の杉山和一を崇敬する鍼灸師と鍼灸師の養成施設の学生などの鍼灸の関係者によるグループであり、江島杉山神社と杉山和一を崇敬する鍼灸師と学生であれば、どなたでも参加することができます。

下記の facebook のグループにご参加ください。

   ↓↓↓
江島杉山神社崇敬鍼灸師会

杉山和一記念館

江島杉山神社の境内の一角には、「杉山和一記念館」(Sugiyama Waichi Memorial Hall)があります。この記念館は、「公益財団法人杉山検校遺徳顕彰会」が、杉山和一生誕400年を機に「平成の鍼治学問所」として企画し、2016年4月に完成しました。

記念館の2階建ての建物の1階には多目的室、2階には資料室があり、「杉山鍼按治療所」も併設されています。この資料室には、綱吉公御真筆掛軸「大弁才天」、浄光院様御真筆掛軸「六歌仙」が掲げられており、江戸期以降の文献約400冊、江戸時代の経穴人形、鍼灸の道具類約40点など、杉山和一、鍼灸、按摩に関する数多くの展示物が展示されています。

この資料室は、墨田区より、墨田区の文化や産業に関連する文献、資料、道具、製品などのコレクションを展示する「すみだ小さな博物館」にも指定されています。

展示品